三河島水再生センターに集まるゴミの7割は夫のすね毛だと思う
荒川区の誇る国の重要文化財・旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設の見学に行ってきました。
「とっても楽しかったなあ」by 夫
いや〜すっごく面白かった……!
今までのわたしにとって下水道といえば、「汚水を処理する場所」。それだけのイメージで、毎日当然のようにジャバジャバと使った水を流しながら生きてきました。
しかし今回の見学ツアーで施設や水路を歩き、歴史を知って、下水道に対する意識がまるっと変わりました。
わたしたちの安全な暮らしと財産、健康、そして環境を守ってくれている下水道。
でも、これからは逆に
「下水道を守りたい」!!
見学ツアーは無料ですが電話で要予約。1名からの申し込みもOKで、ビデオ上映と係の方に施設をご案内いただく時間を含めて所要時間はだいたい1時間半……のはずが3時間近くもお邪魔してしまいました。係の方のお話もポンプ場も面白すぎました(些細な質問にも丁寧に的確に答えてくださったK原さん、ありがとうございました!)。
公共施設の見学は子ども向けと思いがちですが、われわれ大人世代こそが今一度下水道を学び、知らねばならないなあとつくづく。
というかそもそもわりと大人向けのツアーに感じました
果たして旧三河島汚水処分場喞筒場施設で、いったいどんな出会いがあったのか……!?
あんまり施設について書きすぎちゃうと行ったときの楽しみが減るので笑、ざっくりと書いていきたいと思います。
写真も載せていますが、生で見るポンプ場は迫力が全然違いますよ!
旧三河島汚水処分場施設とは
旧三河島汚水処分場施設とポンプ場
旧三河島汚水処分場は大正11(1922)年3月に日本で初めての近代下水処理施設として運用を開始した施設で、下谷・浅草、神田と本郷の一部(現在の台東区の大部分と千代田区の一部)の地域の雨水と汚水の処理を担いました。
今回わたしたちが見学をした旧三河島汚水処分場喞筒場施設(以下、ポンプ場)は、処分場へ入ってきた汚水に含まれる土砂や浮遊物などをこちらで処理して、次の段階の水処理施設である沈殿池へポンプで汲み上げる、という下水処理の第1段階のセクションです。
これがだいぶザックリした旧三河島汚水処分場の断面図だ!
なんとこちら、平成11(1999)年に稼働停止するまで77年も現役でした。大正時代に造られたものが平成まで使われていたなんて、けっこうびっくりですよね。
処分場内の他の水処理施設は最新技術のものへと更新されていきましたが、こちらのポンプ場は建物ならびに沈砂池などの構造物が建設当時の姿を保持しているという歴史的価値から、平成19(2007)年12月に国の重要文化財に指定されました。
ポンプ場では日本の工業技術の発展や衛生面への工夫を随所に感じることができます。
ポンプ室には下水を汲み上げるための大型ポンプ6台、中型4台が設置
また、大正初期に日本に取り入れられ流行した建築様式「セセッション式」の走りとも言われる平面的なデザインのレンガ貼り(レンガ造りじゃないよ)の建物は、その均整の取れた美しさに惚れ惚れするほど。
セセッションとは「分離」を意味し、既存の建築様式からの分離を主張し、新しい時代に相応しい創造をめざした芸術運動のこと
こちら一帯は桜の名所でもあり、外から見ても趣があってとっても素敵なところです。
ツアースタート!
下水の基礎知識を学ぶ
旧三河島汚水処分場の場所は、現在も稼働中の三河島水再生センターの一角にあります。
見学ツアーでは最初に、現在の水再生センターの下水処理のしくみをビデオで学ぶことから始まります。
三河島水再生センターの処理区は荒川区・文京区・台東区全域、そして北区・千代田区・新宿区もちょろっと入っています。
ビデオ上映の際の資料より
いろんな区にまたがっているのが不思議ですが、下水管は汚水が自然に流れていくように勾配をつけて設置しているので(自然流下方式)、行政区ではなく自然の地形に影響されるとのことです。へーっ。
こんなかんじで下水道の基礎知識をお話していただきながら、施設を回っていきます。
入り口には、創設60年を記念して建立された記念碑がありました。
あっ、この形はさっきの処理区じゃないか!!
処分場の位置も示してあったけど、さりげなさすぎる
ポンプ場へ
ポンプ場の見学ツアーでは、現在は稼働停止している場内の8つのポイントを順番に巡っていきます。
橋みたいなところの両脇は下水の土砂を沈殿させる「沈砂池(ちんさち)」
前を行くのはガイドをしてくださった、日本の下水道を支えてきたKさん。「わたしは機械屋だからね」と、いろんな装置のご説明を嬉しそうにしてくださる姿がかっこよかったです。
もちろん装置以外のことも案内板や資料を駆使しながらお話していただけるので、わっかりやすい!!
建築様式について説明していただいているところ
ツアーではヘルメットをかぶって、地下水路を歩いたりもします。稼働停止しているので、見学中にインディー・ジョーンズみたいに水がザッパァーン! なんてことはないので安心です。
こちらの導水渠(どうすいきょ=水路)の陶板は職人の手によって1枚1枚焼かれ、モルタルで貼られています。職人の遊び心がある陶板も……!?
意外と知らない下水の歴史
ところで、わたしたち夫婦は家の台所で料理をすることが大好き。ガーデニングもしていますし、お風呂に入ったり洗濯したり、毎日たくさんの水を使い、そしてたくさんの汚れた水を流しています。
汚染された水が媒介する、コレラや赤痢などといった病気と自分は無縁だと思って過ごしています。
旧三河島汚水処分場が創設されたのは日本の開国後、東京市(現在の東京都)の急激な人口増とコレラの猛威により、衛生的な都市環境の整備の必要があった時代でした。
なぜ三河島か
東京市としては下水の整備は皇居周辺の地域を優先させたかったようですが、調査の結果、三河島町(現在の荒川区中部)の地主たちによる土地買上げの嘆願があったり、技術的な問題もあったりで、この三河島に日本初の近代下水処理場・旧三河島汚水処分場が創設されることになりました。このあたりの話はいろんな苦労が見えて面白いので、詳しくはツアーで聞いてみてください。
↑ 左下の海に伸びている線は、汚水を遠くに流そうと思って考えてみたけれど現実的じゃなかった1.8kmの鉄管
旧三河島汚水処分場の工費は約1,500万円。当時の1円が現在の5,000円くらいの価値だとしたら、約43兆円超の莫大な資金が掛けられた大事業だったといいます。
建設は大正3年から大正11年まで(1914〜1922)約8年もの歳月を要しました(第一期工事は明治44年から)。
この間にも東京市はどんどん膨張し、たとえば郊外だった三河島町も農村から商工業を中心とした地域となり、人口は著しく増加しました。明治初頭にはわずか800人ほどの集落だったと伝えられるのが、大正元年には3899人(810戸)、翌年の大正2年に一気に増えて6684人(1848戸)、工事の終わった大正11年の頃には人口は47907人(13144戸)と、5万人近くにまで膨れ上がっています。
このような背景から、都市や家屋の浸水被害対策、ならびに疫病の予防と市民の衛生観念の向上のため、三河島町だけではなく都市全体の保健衛生の整備と確保がさらに急がれたというわけです。
先人たちの知恵と汗の結晶
現存のポンプは大正時代のものではなく、昭和中期から順次交換されたもの
汚水処分場の建設当時の日本には近代下水処理の技術はなく、東京市の技師であった米元晋一氏が欧米6カ国48都市を視察し、当時最先端の技術であった「散水ろ床法」方式を取り入れることにしました。
ヨーロッパ、特にイギリスでは水質汚濁が問題となり、下水処理法の開発と改良が進められていました
ポンプなども外国から製品を購入していましたが、やがて井口在屋教授が世界初の『渦巻き式ポンプ理論』を発表。その弟子の畠山一清氏が「ゐのくち式ポンプ」として実用化し、日本製の大型ポンプが生まれ、コスト減と効率アップが叶いました。
こうして先人たちの知恵と研究が礎となり、日本は現在のような衛生的な国になったといえます(このあたりのお話も面白かったです。ゐのくち式ポンプはすごい!)。
日本の製品に限らず、ポンプ場は素晴らしい発明品で溢れていました!
ただし上下水道の工事の過程では事故も多く、安全な工事技術が確立するまでは何千人もの方の犠牲があったといいます。
また、旧三河島汚水処分場もむかしは停電もしょっちゅうで、機械が動かなくなったり、水処理の技術が充分ではなかった頃は悪臭やヘドロのなかの作業もあったそうです。それでも非常時には当時の職員や技術者の方々が全身水に浸かりながら機械を操作し、バケツで砂をかき出し、浸水から都市と人々の暮らしを守ってくれていました。
暗い水路を歩きながら錆びた機械を見上げると、当時の人たちの大変な苦労と、街を守ってきた誇り高い仕事の足跡を感じることができます。
下水道を守りたい
下水処理から水再生へ
旧三河島汚水処分場は、
処分場
↓
処理場(1953年)
↓
水再生センター(2003年)
と、名称がその役割の拡大により変わっていきました。
旧三河島汚水処分場は機能的にはすでに処理場と言ったほうが正しいのかも
水をきれいにして海や川の環境を守るほかにも、処理した水を工業用水にしたり、エネルギーを循環する都市をつくるための施設として、24時間休みなしに稼働しています。さらに災害時の都市の保健衛生の備えも担っています。
「水再生センター」という名前については、単に「下水じゃイメージがあんまりよくないから?」と下水処理場の役割の変化まで考えが至っていなかったので、大変勉強になりました。
大人だからこそ感じる感謝と反省
今回の見学ツアーでわたしたちの心に残ったのは「ポンプ場の重要文化財としての価値と歩み」もさることながら、一番は「下水道施設の大切さ」。
ポンプ場を歩いて昔の技術を目の当たりにしたことで、わたしたちの住む街の地面の下に埋まっている下水道管のひとつひとつがわたしたちを守ってくれているものであり、技術と歴史の結晶であり、それと同時にわたしたち自身が未来へ守っていかなければならないものでもあるということがようやく!! 身にしみて感じられた気がします。
レンガの下水管。当たり前かもしれませんが、「昔の人はこれをレンガで作ってたのかー! 大変だなあー!」といちいち驚いてしまう
それにいま、自分が大人になって家を守り、毎日家事をしているからこそ思う下水道への感謝と反省がありました。
できることから下水道を守る
「エコ」っていうと漠然としがちですが、「下水道を守らねば」と思うと、ポンプ場での楽しい思い出も浮かんで俄然やる気が出てきました。
まずは家の排水管を傷めたり詰まらせないように
・キッチンから出る油やマヨネーズはそのまま流さないようにする
・水に溶けにくいティッシュなどをトイレに流さない
・浴室や洗面所にたまる髪の毛やゴミをこまめに捨てる
・洗濯の際の糸くずなどもこまめに捨てる
・夫のすね毛もよく抜けるので、脱毛する
こんなかんじで、できることから取り組んでいきたいと思います。
特にキッチンから出る油は下水道管のなかで固まってしまい、水処理にかかるエネルギーが増えたり、大雨の際はそのまま海や川に流れ出ていってしまうことも。揚げもの好きとして油処理は今までも気をつけていたけれど、これからもますます気をつけよう。
おみやげにいただいた「下水道に油を流さないでスクレーパー」はキッチンへ(ちょうど買い換える時期だったので、地味に嬉しい。しっかりしていて使いやすいです笑)
下水道の大切さや環境問題について、次の世代に「下水道ってすごいんだよ!」としっかり説明できる大人になりたいです。
ありがとう三河島水再生センター
見学を終え、このような施設がご近所にあることがとても嬉しく、誇らしい気持ちです。奥が深いぜ荒川区。
そして今週の台風接近の大雨でも、マンホールの下でゴーゴーと水が流れている音を聞いて、「ありがとう下水道」と夫と感謝しました。
でもきっと今回ポンプ場の見学もせず、Kさんとの出会いもなかったら、今日も当たり前のように水を使い、なんにも考えずに流していたと思いますし、大雨が降っても街に水が溢れないのも当たり前に思っていたことでしょう。なんてことだ。
行ってすご〜〜〜くよかった!!
ということでポンプ場は季節のイベントのときの開放日もありますが、近くにお住まいの方はぜひぜひ予約をしてツアーに行ってみてください!
おみやげに全国にコレクターがいるというマンホールカードもいただきました。イェーイ
心の底からおすすめです!
申し込みとアクセス
見学の申し込みは下記のHPから電話予約。
都電荒川線の「荒川2丁目(ゆいの森あらかわ前)」停留所で下車。町屋方面から来た場合は公園内に入るスロープは登らず、線路沿いに三ノ輪方向に歩いて左に曲がると、正門があります。
緑が多いので、虫よけをしていったほうがいいかも。
参考資料
今回の日記はツアーで受けた説明以外の資料も参考にしています。
日本下水文化協会下水文化出前学校誌上講座
東京・横浜の下水文化を見る /三大環境危機と下水道 / 近現代の下水道を築いてきた人たち
汚水処分場についての参考資料:
荒川区史 荒川区編 昭和11年
都市計画と汚物処理 町井正路 著 大正11年
三河島町の人口についての参考資料:
三河島町の過去と現在 昭和4年
▼見学のあとは荒川区で飲もう。